6月28日(日)に筑波大学東京キャンパスで開催された、哲学カフェの感想です!


先月の28日(日)に筑波大学東京キャンパス文京校舎で開催された6月度の哲学カフェも、ご参加くださったみなさまのおかげで盛会となりました。本当にありがとうございました!

この日のカフェについての感想が届いているので、以下に掲載させていただきます。ぜひご一読ください!

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【 マイク(津崎先生) 】
政治が喧しいので居ても立っても居られない今日この頃だが、そんな時こそ沈思黙考の一時が大事だろうかと思い、陸の孤島であるつくばより東京まで出向いて哲学カフェに参加。十四名の参加者を得たカフェでは、沈思黙考どころか(カフェだからそもそもそれは有り得ないことに後で気づく)、参加者の綺羅星のような発言が様々な哲学者の言葉と呼応して、哲学者がそれこそ沈思黙考の涯に紡ぎ出したはずの《折々のことば》が生き生きと蘇るさまに、不思議な多幸感を得た。覚え書きとして、参加者の皆さんと共有した哲学者の言葉を書き連ねておく。

「人間らしさ(humanitas)」と「魂の陶冶(cultura animi)」(キケロ)
「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。だから、自分の惨めなことを知るのは惨めであることであるが、人間が惨めであることを知るのは、偉大であることなのである。」(パスカル)
「〔自然界に〕不可識別な二つの個体は存在しない。」(ライプニッツ)
「人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。」(マルクス)
「いてくれること(copresence)。」(中井久夫)

或る哲学者が或る詩人から引き継いだ《折々のことば》という新聞連載は、この詩人が書き残した「涯は涯ない」という言葉から始まっていた。哲学カフェの醍醐味は、それこそ涯のない思索を哲学者の《折々のことば》を手繰り寄せながら少しづつ深めていくことなのかもしれない。

【 こうちゃんパパ(保呂先生) 】
「今私が感じている《しあわせ》は本物か」という自分自身への問いを発した方がいらっしゃいました。
しかし「本物かどうか」という問いによって、私たちは「《しあわせ》」の主体は果たして「私」なのか」という問いにも導かれ、そして「私」とは何かと問うことにもなったようです。
このような問い直しの繰り返しは「哲学カフェ」の一つの特徴かもしれません。
どのようにして「考える」ことを学校で教えることができるかという問いを出して下さった方もいらっしゃいましたが、「考える力」の育成が現在の教育現場の課題であると言われる時、上述のような(あるいは無限の)問い直しの途が不毛な迂路のようにそこから排除されていないかどうか、気をつけていなければならないと感じました。
一般に人文系の学問など大学に不要であるとみる役所が念頭に置くであろう「考える力」は、早急に最善の解を導く力と容易に同一視されてしまうのではないかと危惧されるからです。「哲学カフェ」はこれに抵抗する一つの砦でしょうか。

【 イさん(井川先生) 】
各自いろいろな仕事を抱えつつ文字通りの自由意思での参加でした。
また背負っているものもその荷の重さも別々でした。
ただ誰もが殻に閉じこもらず思いを共有しようとの開かれた集いでした。
トレンドや流行に棹さすだけでなく自分の考えが他者からの照射のもとどれだけ妥当なのかはかる試金石のような場でした。
人文については西欧の教育観とアジアのそれとの違いはあるものの、人間の可能性、本性を磨いて輝きを加えるという点で類比的であることも分かりました。
「文(ぶん)」は「天文」「地文」にならぶ人間の「紋(あや・ぶん)」だと定義されます。
ただ人間といっても幅や深さがあるもので、悲惨や苦悩といって一見ふとして忌避されるものもある種の持ち味としてとらえ返されなければならないこともこの集いで分かってきました。
人間を見据え、その力を展開させることを目指す人文の学を軽視することは、魂なき人間を大量生産することにつながるでしょう。そんなのなら文科省も「文」の一時を削除することを願います。

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