10月25日(日)に筑波大学東京キャンパスで開催された、哲学カフェの感想です。

去る25日(日)に「筑波大学東京キャンパス文京校舎」で開催された10月度の哲学カフェにご参加くださったみなさま、本当にありがとうございました。
さてさて、上記カフェの感想が届いていますので以下に掲載いたします。ぜひご一読ください!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【イさん(井川先生)】
知識と教養。今回は高踏的なテーマでしたが、やはりすべては人間の活動。学問の情報量を増大させるのか、それとも自分の枠を取り払い、他者との関わりに向けて能動的に展開する術(すべ)となれるかどうかに関わっていたかと思います。
また教養は現状維持・教化・ディレッタント的悦びにだけ奉仕するのでなく、その情報が、啓蒙後のフランス革命などにもつながったことを思うと、知の底力さえ感じさせられます。壁・限界を超える「力」あるものだと思います。

この人間的な力―東洋哲学では「文」―の力をゆるがせにする手合いは、後世から唾棄されるであろうと感じる契機となりました。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【こうちゃんぱぱ(保呂先生)】
「教養」とは何か、人によって意味するところが多様で困惑するという発言が多く聞かれました。私の場合、「教養」を得るのに資するとされる事柄(大学の「一般教養」科目)などもおそらくは混同しつつ、あの時間この問題を考えていたように思います。ただ、「知識」と「教養」を対比しつつ、それぞれに相応しい動詞を書き出してみるという作業を皆でやって、その成果を分かち合ってみたところ、思いの外、皆似た方向で「教養」を理解しているように思いました。この「教養」を「身につける」あるいは「高める」「磨く」ための方法を問うところ、例えば大学などでの教育がこれに貢献できるのか、それはどのような仕方でか、などと問うところでむしろ、皆の考えの相違がもっと顕著なったのではないかな、と思った次第です。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【さっちゃん(五十嵐先生)】
「焼き鳥と蜂蜜」

私たちの哲学カフェは14時に始まる。だが今回は、飛行機の都合で14時半までしか参加できないという方が13時半過ぎにいらっしゃった。当然、その場でおしゃべりが始まる。ところがその参加者から持ち込まれたテーマは「教養って何だろう?」。ちょっと「固い」テーマだ。実際、14時前頃から三々五々集まってきた人たちの空気は真っ二つに分かれてしまった。
一方では、そのテーマについて熱く議論する人たちがいる。ここでは「教養」の定義をめぐって、あるいは「教養」の本質をめぐって白熱した議論が戦わされた。専門用語も使われ、中世以来の大学論にも話は発展した。
しかしもう一方では、「教養」についても、またそもそもこうした語り方そのものについても違和感を感じる人たちがいる。案の定、途中で「もっと身近な話がしたい」「難しく話される話についていけない」という声が出された。
ここで話題を変えるのは簡単である。だが、私たちのカフェは違う。「教養の本質とは?」という問いと、ある参加者が本当は話したかったという「親の介護に疲れたが、それを誰にも相談できない」という問いを、一本の串でつないだのだ。
これはいつものことである。参加者からライブに出されるいろんな話。それらは一見、全く異なるものである。だが、「トリ」と「ネギ」に串を通してネギマにすることで美味しい焼き鳥は成立するように、哲学は「問い」を通して異なる話に一本の串を通していく。トリを持参した参加者も、ネギを持参した参加者も、問題の思いもかけない広がりに驚き、そこで生まれる新しい美味を喜ぶ。その意味では、私たちの哲学カフェは焼き鳥カフェである。

同時にここは蜂の巣である。
今日のカフェも、いつも通り、全員が話した。しかも一度とか数回とかの「発言」ではなく、ずっと全員が「話し」、全員が「聞いて」いた。「誰かの発言」ではなく全員の「対話」が実現していたのだ。それぞれの人がそれぞれの言葉遣いでそれぞれの本音で話す/聴く。また話す/聴く。対話は二人になったり全体に広がったり形を変えながら進んでいく。蜂の群れが形を変えながら全員の羽をそれぞれにブンブンうならせて飛んでいくように、対話が生まれ、変化し、育っていくのだ。
これは私たちにとっては当たり前のこと、むしろこれがいつもの私たちのカフェの風景である。しかし、ある「哲学カフェ専門家」の参加者によれば、不思議なことだがこれは他の哲学カフェにはない、筑波大学哲学カフェの特徴らしい。
「対話」の中には自然な共感もある。反発や対立もある。初めて会う参加者たち、年齢も職種も学歴も考え方も違う人たちが、全員本音で話すのだからそれは当然である。蜂はブンブンうなり出す。ファシリテーターは問いを投げ、組み替え、線路の掃除をし、一つの方向にだけ行こうとする力があればブレーキをかけ、全員で向かえる方向に調整する。あるいは遠慮という日本的美徳で場の温度が下がった時には、ブレーキを外してエンジンの回転数を上げる。だが、ブンブンうなりながら蜜を求めて、心からの納得を求めて飛んでいくのはカフェの全員という蜂のみなさんなのである。それは、本当の蜜を求めて三時間一緒に飛んだ、一つの蜂の巣の仲間なのだ。

終わった時はほとんどの参加者がスッキリした心からの笑顔を見せてくれる。
でも、私たちも楽しいのだ。
私たちには「市民に対話の場を提供してあげている」「やってあげている」意識は全くない。役割を越えて、みなさんと「マジで話す」この場で、私たちもたくさんのものを与えられているのである。

ソクラテスと踊る筑波大学哲学カフェで、みなさんにお会いできますように!
五十嵐沙千子