10月28日(水)に開催された、図書館カフェの感想です。

先月28日(水)に開催された図書館カフェにご参加下さったみなさま、本当にありがとうございました!

この日のカフェの感想が届いているので、以下に掲載させていただきます。
みなさまぜひご一読ください!
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【イさん(井川先生)】

今回は身内に関わるお悩みをお持ちの方の話がきっかけとなった。
お子様との来し方の諸々を悔い、今と先々の不安にさいなまれるとのこと。当人の切実さを持たないわれわれは「正しい」解答を示せないが、類似した経験との対比で、それは悲劇的なものでも固定的なものでもないことは指摘できると思った。安閑とした生活の真下に地獄があるかもしれないのと同様に、悲劇の極限にも笑いはある。
仏陀は子を亡くした母に「親族に亡くなった者のない者を探し出せばよみがえる」と告げたという。母は八方そのような人を探したがもちろん見当たらず、むしろ誰もが悲しみを持っていることを痛感し、悟るところがありひいては心やすいらいだという。
誰もがその点差別なく平等だということだ。

繰り返すが、その当のリアリティー切実さのない者には発言権はないのかもしれない。しかしやはり「それでもなお」、「生きている限りは希望があるDum spiro spero」の言葉を信じたい。

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【こうちゃんぱぱ(保呂先生)】

確かに一所懸命だったのだけれども、その結果過ちを犯してしまった自分を許せないといった身につまされる悩みをめぐって話し合われました。自分の思い煩いに囚われているとき、他者をあるがままに受け入れることもできないし、逆に他者をあるがままに受け入れられないなら、実は自分自身の囚われからも自由ではないのだろうと思います。悩みを告白された方とは別の方でしたが、厳しく責め立ててきた過去の自分を、ある時、ふとしたきっかけで赦すことができるようになったと仰いました。ただ、それがどのように作用して自分が変われたのかははっきりしないと。ただ、誠実な性格の故に、それまで随分苦しまれたようです、とことん思い煩って。でも、それだからこそ変われたのかもしれませんね。悩んでいる方には厳しいかもしれないけれど。自分を省みて、悩みもほどほど……、ではまだまだダメなんだろうなぁ。

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【さっちゃん(五十嵐先生)】

初参加の学生や院生、市民の方たちの議論が白熱した。参加者から出されたテーマは、「親が子供にしてやれること」。
親は「自分の子供には良い人生を、幸せな人生を」と望み、それを実現させるために子供を叱ってでも勉強させ、社会で通用するよう厳しくしつける。すべてそれは「親心」である。子供に社会的地位を望まない親はいない(だろう)し、たとえ子供が勉強やしつけを嫌がって泣いたり反抗したりしても、だからといって子供の欲求のままに放任するわけにはいかない。強いてでも子供を「伸ばしてやる」のが親の責任なのだ・・・こう話す一人の参加者に賛成する意見が出る一方、「子供を強いることが本当に愛情だと言えるのか」「社会的地位を保証することが子供に幸せな人生を保証することになるのか」という反対も相次いだ。

親の愛とは何なのだろう。子供を「人並み」(あるいは「人並み以上」)に引き「上げる」ことなのか。
私は、それは稚拙な愛ではないかと思う。
誰でも、愛する者には「良いもの」を与えてやりたいと思う。「良い地位」「良い学歴」「良い結婚」「財産」etc…
だがそれが「本当に良いもの」かどうかはわからない。その子供にとって本当に良いもの、その子供を本当に幸せにしてくれるものとは限らないのだ。たとえそのときには不幸に思える出来事であったとしても、死ぬほど泣かなければならない出来事だったとしても、それがその子供を育てるということ、最初には考えもしなかったような大きな幸せにその子供を開いていくことだということも、大人である私たちはよく「知って」いるのだ・・・。
だとしたら、大人が子供に、親が子供に与えられるものとは何だろう。
何があったとしても、どんなことが起きたとしても、死ぬほど泣いた後で、顔を上げて、昨日よりも輝かしい、昨日よりも世界に開いた顔を上げて歩いていける力を、大人は子供に与えることができるのだろうか?

私はできると思う。
ひとつには、その力がこの子供にはあるのだと、全く何の根拠もなく-しかも本当に-信じることで。
そして、その力を可能性として持っているこの子供に与えられるすべての出来事を、天の贈与として受け入れそれに自らを切開していくことの中で。
そして、どんなことが起きても顔を上げて歩いていく一人の人間として、私自身が生きていくことで。

それを、愛がするのである。

—すべての贈与は災いであり、すべての災いは贈与である。