12月27日(日)に開催された文京カフェの感想です。

昨年12月27日(日)に開催の文京カフェにご参加くださったみなさま、本当にありがとうございました。

遅ればせながら、過日のカフェ(年末ながら多くの人が参加しました!)の感想が届いているので、以下に掲載させていただきます。
みなさまぜひご一読ください。

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【イ・サン(井川先生)】
今回は年の瀬。慌ただしい中でも、思いの丈皆で話し合いたいという人々が詰め寄せた。久々の大人数で、班分けして意見交換すること数回。盛況だった。

人には意見の対立が起こる。一体それは自我に強く固執するためか、あるいは意見の価値を至上と考えるからか等々、複数の選択肢があげられ思考実験が展開した。
ただ分析を進めるとそれら複数の選択肢にも関連性があり、どれか一つを取り出すということができないことが分かった。

どれかにこだわる力は他とは切り離せず、相関している。
あけすけに言えば執着の力によるものではないかとの考えが現れた。実体なき力と力のせめぎ合いから、現れては消える表象を、至上のものと固着する執着。
それが人間の諸々の問題を引き起こしているのではないか?

今回ももちろん「解決」はでなかった。問題は新年へ持ち越され、また思考の展開が始まる。

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【こうちゃんパパ(保呂先生)】
年末の忙しい時期にもかかわらず、大勢の方が参加して下さり、グループに分かれて議論する機会が何度も与えられました。

様々な話題について様々な考えを聞くことになりましたが、後半は他者と自己をめぐる問題に議論が集中したようです。
哲学カフェでは様々な対話をしますが、対話相手が自分と異質な存在であることに大きな意味があることに疑いはありませんが、それでも対話相手である他者と自分との関わりも、その都度様々なのではないでしょうか。

今回のカフェでは、相手が共同の探究者であることの発見がテーマの一つになっていたように思いますが、相手が自己超越の契機になるものの、それ以上の関係に進まないことも考えられます。
私たちは、何を前提にし、何を目指して対話することができるのだろうか、
それは対話や議論の中味にも深く関係しているのではないか、
などと、今さらながらの基本的な事柄を考えさせられました。

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【マイク(津崎先生)】
古典的なファシリテーション(進行)の手法が幾つも取り込まれた今回のカフェは、共同主催者である私にとって、対話型授業の構想に資する発見の連続であった。
大学で哲学を教授する私にとって、’I as a teacher, I as a learner, I as a researcher, and I as an entertainer’であるにはどうしたらよいのかを自問しない日はない。

哲学カフェは、そのような答えのない問いに取り組むためのヒントを幾つも与えてくれることを再認識した日曜の昼下がりであった。
‘We as colleagues, we as rivals’という言葉を投げかけたくなった同僚のファシリテーションに感謝したい。